三池甘藍の祖

三池甘藍の始祖・海谷久義

三池甘藍の始祖は北新開の海谷久義氏である。
家庭の事情で十六才の時から農業に志し、一町八反の水田と取り組んで実際家として農芸の研究に生涯を捧げた人である。
  
「平地には畑地が少ないから野菜が不足である。先づ多角農業経営は、裏作を何とか工夫せねばならぬ。米も安いが麦、辛子は尚安い。裏作園芸は茄子苗の育成から始めねばならぬ。」とかたく決意して之を実践した。
  
当時の茄子苗は浮羽・朝倉地方から移入されていた。氏は納米の残りは全部仲買人に売り、価格の安い唐米を買って食べ、剰金を以つて資金に充てた。茄子苗を大牟田へ出荷すれば、永年買い馴れた他郡の苗が優良の様に思われてか買手がつかない。遂に郡農会の奨励により、一本に就き八厘の補助金を受けて漸く収支をつぐなつた。つぎに甘藍、玉葱、トマトの栽培に先鞭をつけ、折角苦心して育てたものの、地方ではその食い方が普及していないので、その販売には一方ならず苦労し、時折り三池港に入港する外国船を相手に販路を求めた。
  
二十才の時はじめて甘藍の採種に着手した。当時国内の甘藍種子は外国から輸入を仰いでいたのである。心胆を労して採集した甘藍種子も、商店の信用を得ねば販路の開拓ができない。その信用をかちとるまでには約十ヶ年の歳月を要する。ここに苦闘十年の生活を過ぎ不屈の努力は益々鞏固になつた。

氏曰く「世の中は自分一人利益を受けてはいかない。村人の多数が富の分配に預からねばならない」と。現在、村内には六十町歩の甘藍採種園がある。年産四百石の種子は国内は勿論遠く海外にまで輸出されている現状である。
 
かつて農林大臣の海谷農場視察があり、天皇九州御巡幸の砌二日市農事試験場に於いてご拝謁の栄誉に預かつたことなど幾多の栄光に浴したが、これは一に氏の五十年に亘る粒々辛苦の尊い報償である。今日「三池甘藍」の名が世に知られるに至つたことは、氏の先見と努力の賜物で、郷土産業発展のため慶祝にたえないところである。

高田町誌(昭和33年発行)から抜粋